絵画との出会い  幼い頃からの自然と絵画の関係

遠い記憶 テレビの中の油絵


                               有   馬   広   文


 私は1957年、加世田市津貫の農家に四人兄弟の末っ子として生まれた。

物心ついた頃から家族といっしょに畑の中でクワやカマを持ち、農業の手伝いの真似事をして、土まみれになっていた。四・五才の頃の記憶である。
 土の中には小さな虫のさなぎがたくさんいた。それを見つけて転がしたりして遊んだのは、はっきりと記憶にある。肥沃な畑の黒土は何とも言えない父親の汗のような匂いだった。

 やがて私も小学生になりランドセルを背負って学校へ行くようになるのであるが、日曜日ともなれば、畑や田の仕事が多かった。

 冬になれば山へ薪の切り出しにも行った。五年生の頃にはノコの目も自分で研ぐことが出来た。自分の腕や太ももや時には胴体程の大木を、飽きもせずに一日中ノコを使って50cm程の長さに切っていたのをはっきりと思い出す。

 その切り粉の匂いがたまらなく好きであった。夕方帰る頃、汗だくになった体を拭いていると、母親からとても誉めてもらった。そんな風に誉めてもらえるのは、ほんとうに良い気持ちだった。そんな日は、家に帰って寝るまで気分が良かった。

 今思えば、それらの仕事は自分の中では遊びだったような気がする。山の中の本当においしい空気、靴から伝わる大地の感触、そして十時と三時に必ず出てくるお茶の時間、乾いた喉を潤す水のおいしさは、ずいぶんと長いこと味わっていない気がする。
  夏休みにはあまり農業の手伝いもなくて、昼間の暑い時間は近くの川でエビ取をして遊んだ。それが毎日のように繰り返され、十年程続いた。

 釣ったエビは父親の晩酌のつまみになった。私はそうした遊びがとても好きであった。

 そんな美しい川も私が高校生になった頃大きく変ぼうし、川には小魚一匹、小エビ一匹もいなくなった。河川工事のコンクリートの悪影響と今でも思っているが、はっきりしたことは分からない。川の石や岩・水の流れも変わり、昔のような美しい清流ではなくなったが、二年ほどしてまた川の生き物は帰ってきた。しかし、残念なことにあの深い緑色の水の色も、大ウナギの通り道であった川岸の自然も完全に無くなっている。

 

 (1964年)小学生の頃は、学校の先生によく叱られた。何が悪くて叱られたのかはあまり覚えていないが、実に毎日のように叱られていた。その頃は、頭が悪いだけで叱られていると思っていた。事実頭の良い子は先生からも随分と誉めてもらえて、膝の上に抱かれて甘えていた。私にはそんなことは一度もなかったが、それをうらやましく思ったことも一度もなかった。学校の先生は嫌いであった。理解の出来ないうちにこっぴどく叱られた時などは、『いつか必ずお前を超えてやる』と思っていた。

 今思えばおかしな話であるが、そんなことを十才前後の子供が真剣に考えていて、絶対の自信があったのである。
 こうして先生だけを悪者にするわけにもいかないが、私自身は叱られるようなことばかりやっていた様な気もしている。悪ガキだったと思う。そんな自分自身の事もあまり好きではなかった。

 学校で叱られた事は家族にはひた隠しに隠した。親に分かればお前が悪いとまた叱られるのである。

 その頃の学校の先生は絶対君主に近いものがあった。PTAらしきものもあったと思う
が取り立てて騒ぎ出すような事件は一つも無かった様に思う。その頃の田舎の親にしてみれば毎日の生活や農業に追われて、それどころではなかったのかもしれない。家庭訪問の時等は先生のご機嫌をとっていた母親を思い出す。

 そんな時代だったのか、友だちとつかみ合い殴り合いの喧嘩をしても、親が出てくるといった事は一度もなかった。学校の帰り道、友だちと喧嘩して握りこぶしほどの石を投げつけておでこに随分な怪我をさせた事があった。血だらけになったその子は周りにいた友だちといっしょに大騒ぎしながら病院へ駆け込んだ。私は自分は悪くないと思いながらも親に叱られるのが怖くて小さくなっていたが、その事で叱られた記憶が全くない。一家揃っての夕食の時にも話題にすら出てこなかった。不思議な思い出である。

 

 テレビでは絵画の巨匠や、その頃の洋画家の制作風景がたまに放映されていた。白黒テレビの時代でそれを見るのがなぜか好きでたまらなく、食い入るように見ていたのを思い出す。古い民家の麦わらの家を、記録として残すために油絵で描いている人がいた。その描写は素晴らしく、本物とそっくりであった。

(最近になって(2012年)確認したことであるが、向井潤吉先生だったと思う)
 油絵には関心があっても、描く事は出来ない。見る事で満足しなければならなが、いつかやってみたいという気持ちがあったのは確かだった。
 

 (1970年)中学生になり、新しい先生と保育園以来の6年ぶりの友だちにわくわくしながら学校へ通った。そしてその先生の中に恐ろしく厳しい美術担当の川崎浩先生がいた。

 まるでプロレスラーのような分厚い胸板にギョロッとした仁王のような眼、怒り出したら鼻血が出るまで叩かれる。怒鳴り声は雷神のようでこれはもう小学校の先生の比では無かった。

 美術の時間は土曜日に3時間組まれていた。最初に制作したものはたしか皿に絵を描くもので、自転車置場の裏に梅の木があってそれを描いたのを昨日の事のように思い出す。そして、とても良い絵だと誉めていただいた。

 ここに『絵画との出会い』があったと思っている。

 これまでは先生に誉められることなど皆無に近かった私に、やっと光が当たった様なもので、何を描いても、何を作っても高い評価をしてもらえた。

 当然の事ながら美術の時間は大好きになった。そして2年生の2学期、先生の勧めで初めて油絵を描いた。何も言わずに高価な絵の道具代を出してくれた母親に、今でも深く感謝している。

 中学生でありながら加世田の絵画サークルにも通い、大人といっしょにキャンバスに向かった。川崎先生といっしょに坊津の漁村の風景を描いたり、先生のアトリエで花を描いたこともあった。その花の絵は今私のアトリエに掛けてある。
それを見れば初心を思い出し、志を誓った青年の頃も思い出す。
しかしながらその頃は絵が全てではなかった。生活の一部であり、好きな事の一つだったと思う。仲の良い友だちと将棋を挿したり、数人で
海へ行ったり川へ行ったり、そんな事に明け暮れていた。
 中学を卒業するとき川崎先生は私のスケッチブックに桜島の赤い絵を描いてくださり、その絵の裏に『絵描きを志せ! 必ずものになる。』と記してくださった。
そして卒業と同時に川崎先生は海外派遣美術留学生としてパリへ向われた。
それでも私には絵描きになるという決心は無かったと思っている。

 

 (1973年)鹿児島県立吹上高等学校に入学し、近所の兄さんの勧めでバスケット部に入部した。何となくではあったが、一つには長続きしない自分の性格への挑戦があった様に思う。

 この3年間の高校生活でスポーツに身を投じたのは良かったと思っている。厳しい練習の割には成果が出ない3年間であったが、それでも満足している。

 この頃のスポーツは水分補給無しでやっていた。私と同世代の方は皆経験している事で、とにかく喉が乾いた。それでも大きな事故もなく鍛えられた。特に合宿のきつさは大変なものだった。顧問の先生は高山尚人先生。非常に厳しい先生だったと思っている。しかし中学生の時教わった川崎先生と同じように何かしら温かなものが流れていた。

 3年生の合宿が終わるとき高山先生の言われた事は次のような事である。

『君たちがこの合宿に参加して、鍛えられてきつかっただろうが、世の中に出たときこの合宿以上にきつい事はまず無いだろう。これから社会人になっていく上でこの合宿が決して無駄で無かったと思えるはずだ。』

 確かに言われた通りかもしれない。あの時以上にきつい事は無いのである。

 高山先生の言われた言葉は今でもしっかりと心に焼き付いていて、この事が私の人生の中で大きな自信につながっている。

 

 高校を卒業して広島県の自動車製造工場に就職した。(中略)
帰鹿するまでの二年半の間に30枚程の油絵を描いたが全て小さく切ってゴミ箱に入れた。気に入ったものは無かった。何もかも捨てて加世田市津貫の古里に帰り、全くのゼロからの出発を始めた。

 印刷所に勤めが決まり生活も安定してきた頃青年団活動に勧誘され、のめり込んで行った。若い仲間がたくさんいて楽しかった。その活動の中で全国青年大会があり、私は絵画の部で佳作賞をいただいた。22才の出来事である。この頃から中学生の頃のわずかな可能性である絵描きへの夢がだんだんと頭をもたげてきた。『絵描きになりたい』私の夢は少しずつではあるが確実に心の中で大きくなりその面積を広げて行った。

 あの小学生の頃の根拠の無い自信が再びよみがえり、それはもやもやとした絵描きへの夢だったのかもしれない。

 南日本美術展へ3回連続で落選した。川崎先生にも見ていただいたが、あの頃とは手のひらを返したような悪評の連発だった。その指導法はまずいところに『ココもダメ、ココもダメ』と言いながら白い絵具で×印を付けるというもので、最後には百号のキャンバスが×印だらけになっていた。これが本当の自分ではないと思いながらも、喉につかえた魚の骨があるような苦しい3年間だった。
 しかし、3度目の落選を見た時も、もう絵を止めようとは微塵も思わなかった。新聞の発表欄に自分の名前が無くてがっかりしたものである。

 

 (1983年)結婚。印刷所に勤めながら、空き時間を絵を描く事に費やした。
 南日本美術展出品一週間前、百号の絵2点を軽トラックに積み込み吉野町の川崎先生の自宅まで運んだ。あと一週間しかないというのに持ち込んだ絵の出来は悪く、先生は呆れながらもご自分の絵具で少し描き足してくださった。その時、心の中に新しい何かが生まれたような不思議な感覚があった。私はまっすぐ家に帰り、1枚の絵を濃いグレーの色で全面塗りつぶした。そして一週間、懸命に描いたのを覚えている。チャンスはいつ、どこにあるかわからない。その感覚は新鮮で、ワクワクするようなものがあった。夜中に目がさめると、顔を洗いキャンバスに向った。

 初入選はその年であった。4度目の挑戦が実を結んでくれた。妻も手放しで喜び、次の年、二科展に初挑戦し入選を果たした。
 美術大学を出ていない私が絵描きになるためには、日常の生活でその色彩感覚を磨き、制作の量も2倍3倍と描かなければならない事は、今でも十分に承知している。

 私は出会った人に恵まれていた。これまでのたくさんの素晴らしい先輩や友人。特に川崎先生は私に絵描きとしての人生観を話してくださった。それは、キラキラと輝いている将来への希望だった。


 南日本美術展の初入選から31年が経った。その頃描いた夢は、今でも健在で私の生活の大部分を占めるようになっている。

 

 私の絵の原風景は家族と過ごした田舎の畑。あの美しい川の深い緑色の水にあると思っている。

                 
                     1976年鹿児島県立吹上高等学校 卒業生

                   鹿児島県立吹上高等学校50周年記念誌掲載

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